古代の都は右と左が逆!?

皆さんは、日本の歴史を学校の授業で習った時、教科書や図説などに載っている古代の平城京や平安京の地図を見て、「あれっ?」と不思議に思ったことはないでしょうか?

これらの地図を現代人の感覚で眺めた場合、「右京」と「左京」の位置が逆ではないのか?古代では「右」と「左」の位置関係が現代とは反対だったのか?このように思ったことはないですか?

これは意外と「日本の歴史学習あるある」かもしれませんね。

私が小学校で初めて日本の歴史を学んだ時、教科書に載っていた図でこうした疑問を持って、「先生、この図は右京と左京の位置が逆になっているけど、印刷ミスじゃないの?教科書に載っている図なのに間違いでは?」と質問したことがあります。

先生の答えは「これで正しい。間違いではない」との説明でしたが、なぜ右京と左京の位置が反対なのかの説明はしてくれなかったので、この疑問は解消されず「モヤモヤ」状態がそのあと長く続いていました。

平城京や平安京の地図を眺めると、これ以外にも現代人の感覚からすると少しおかしな点がもう一つあります。都を東西につらぬく街路の名称ですが、正門である羅城門から「一条」「二条」と数えるのではなく、都の北から「一条」「二条」と数えるようになっています。

現代人の感覚からすると、たとえば外国の使節が都を訪れる場合、正門である羅城門を通って都に入るので、羅城門を起点にして「一条」「二条」と数えたほうが良いような気もするのに、そうはなっていないですね。

この疑問が氷解したのは高校生の時でした。説明は超簡単で、都の中では誰が一番偉いのか?を考えればすぐに理解できます。それは都の北に位置する大内裏の中に住む「天皇」になります。

大内裏の中に住む天皇が、羅城門の方向(地図上では南)を向いて立っているとします。すると天皇の左側が左京、右側が右京になりますね。また東西をつらぬく街路の名称が、羅城門ではなく天皇のいる大内裏を起点として「一条」「二条」となっていることも説明がつきます。

つまり古代の都は、「天皇」を中心に形作られており、天皇を起点にして区画や街路の名前がつけられていたということです。

ちなみに古代の日本では、「左」が格上と考えられており、平城京でも平安京でも政治権力を握っていた藤原氏などの上流貴族の屋敷は「左京」に集中していることが多かったようです。

日本語でも一般的に両側を短く表す言葉として「左右」と言いますね。「右・左」のように右を最初に持ってくる言い方は交通安全の標語だけです。これについても興味深い話があるのですが、またの機会に説明します。